#7 伝説のストリップ劇場「浅草ロック座」に行ったら全然エロくなかった話
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浅草ロック座に行ってきました。
行った直後、まだ興奮も気まずさも冷めきらないうちに書いておこうと思います。
エロくはありませんでした。
ただ、それより厄介なものをいくつも持ち帰ることになりました。
(これは2016年の年末に行ったときの記録です。浅草ロック座はその後、2024年の水害で休業し、2025年12月に閉館しています)
まず出てくる言葉が「劇場」だった
ストリップという言葉から想像していたものと、実際に座って見たものは、かなり違いました。見終わって最初に口をついて出たのが「劇場」という言葉です。とにかく「劇場」だった。照明があって、音があって、幕が上がって、演目が変わっていく。
初めて女性の裸を見るわけではありませんし、ネットでいくらでも見られる時代です。だから裸そのものへの驚きはほとんどありません。それよりも、まったく知らない他人と同じ空間で、同じものを、しかもちょっと異常なものを一緒に見ている。その感覚のほうが面白かった。
エロいかエロくないかで言えば、エロくないです。これは素直な感想でした。理由を考えてみると、昔、友達と一緒にアダルトビデオを見ていい気分になるかというと、ならない。あれに近い。
むしろ映画のワンシーンをずっと眺めているような気分で、座席を正面に移してからは、非日常感というより、妙に他人事めいた時間が流れていました。
舞台より、客席の顔を見ていた
最初は真横に近い席から見ていました。花道のような通路をずっと歩いてきて、端まで来ると、首を90度以上曲げないと見えない。休憩を挟んで正面側に移ってからは、正直、舞台よりも客の顔を見ていた時間のほうが長かったかもしれません。
これが面白かった。表情が人によって、はっきり分かれるんです。
半分くらいの人には、まだ照れが残っています。恥ずかしさというか、羞恥心というか、社会的な理性みたいなものを気にした顔をして見ている。ここにいる自分をどこかで持て余している顔です。
一方で、ごく一部の人の顔がやたらと安らかでした。文化財の公開でも見ているような、あるいは孫の成長を見守るような、静かな笑みを浮かべている。
ただし、だらしないわけではありません。口元はきちんと引き締まっている。自分の楽しみ方を知っている人の顔でした。あれは印象に残りました。
平日の昼間、なぜこの人たちはここにいるのか
客層で言えば、平均年齢は60くらい。前に座っていた人は70代後半に見えました。80代もいたかもしれません。中心は50~60代で、20代半ばくらいの若い客も数人いました。女性も二名確認しています。若い方ではなく、30代以上に見えました。
平日の昼間です。明らかに年金生活者と思われる人もいれば、ワイシャツをきちんと着た人もいる。浅草の寄席に行ったときも同じことを思いましたが、この人たちは昼間に何をしている人たちなんだろう、と本気で気になります。
もっとも、向こうから見れば、なんでこんな若い奴らが来ているんだ、と思われていたはずです。
落語や映画なら、昼間から入る動機ははっきりしています。笑いたい、面白いから見る。ではストリップは何が動機なのか。やはりエロの要素は絶対にあるはずです。それがないなら演劇を見に行けばいい。ただ、目の前で女性が服を脱いでいくという光景が日常の中にないのは確かで、その非日常への切り替えスイッチとしては、ピンク映画やロマンポルノと発想は近いのだと思います。
ネットでいくらでも裸が見られる時代に、なぜわざわざ5000円払って劇場まで来るのか。そこは、最後まで答えが出ませんでした。
5000円で、一日いられる
5000円は安くはありません。その代わり一日中いられます。座って見ていて気づいたのは、目に入ってくる情報が意外と少ないということでした。原色の照明が常に動いていて、飽きはしない。でも頭の中では別のことを考えられるくらいの情報量なんです。考え事をするには、ちょうどいい空間でした。裏を返せば、途中で眠くなります。体は動かないし、目から入る情報も限られている。自分の場合、よほど対象に興味がないと、意識を保ち続けるのは難しかった。
見えた瞬間、僕の中ではショーが終わった
構成としては、まず綺麗な衣装を着て、専門のダンサーを5人ほど引き連れたダンスパートがあります。そこから一人になり、衣装が変わり、そこでようやく脱いでいく。この流れが繰り返されます。
最初は、踊りすごいな、と素直に見ていました。ところが4人目、5人目になると、もういいかな、と思えてしまう。ダンスの技能を競っているわけではないと分かってしまうからです。ダンスそのものをそこまで見たいわけではない。そうなると意識は一気に一点へ向かいます。見えるのか、見えないのか。隠されている部分が出てくるのか。
そして、いざ見えた瞬間に、盛り上がりが終わるんです。
その後で大開脚をしても、体を揺らしても、人間彫刻のようなアクロバティックなポーズを取っても、自分の中では、そこでもう終わってしまっている。見る側の勝手だと分かっていながら、そうなってしまう。乳首が見えた瞬間に賢者モードに入る、と言えば近いかもしれません。
でも、だからこそ前半のダンスが必要だった
一方で、あのダンスパートは絶対に必要だったという見方もあります。
目の前に女性がいて、その人がいきなり脱ぎ始めて興奮するかというと、しないんです。それでは配信で裸を見るのと変わらない。服を着た状態の人を見て、その動きを見て、うまい人には多少なりとも感情移入をする。感情移入した対象が脱ぐからこそ、価値が上がる。頑張っている姿を見た後だから意味がある。前段があるからこそ、後段が効いてくるという考え方です。
これは他のジャンルでも同じ構造です。エロアニメなら、いつもきびきびした女教師が、ある瞬間から崩れていく。落差そのものに興奮している。
そう考えると、隠すからエロくなる、ということは確かにある。エロがダイレクトに来ると、逆にエロく感じない。意識的か無意識かは別として、あえて隠す方向へ持っていくから掻き立てられる。
同じ光の下に並ぶと、老いが見える
若さというより、老いの残酷さ。これがいちばん強く残りました。
顕著だったのは最後です。全員が出てきて、ずらりと並び、同じ角度から光が当たる。同じライトなのに、年齢を重ねた人は影の出方が違うんです。ほうれい線のあたりに、はっきりと。
誰も逃れられません。しかも彼女たちは360度から見られている。あの光の下で、彼女たちは何を考えているのだろう。
一日に5公演ほど、ほとんど同じことを繰り返しているそうです。一人あたりの持ち時間は10分か20分くらい。それでも、こなしている感じがまったくしなかったのが良かった。本当のところは分かりません。ただ、少なくとも見ている側にはそう伝わってきませんでした。
5000円は、高いのか
もう一回行くか。そう聞かれると、少し落ち込んでいるときじゃないと難しいかもしれません。勇気をもらいたいときでないと、なかなかその気になれない。だいたい想像がついてしまう、という感覚もあります。
その一方で、5000円払ってもう一回行きたい、という感想もありました。特に最後の演目です。バックストリート・ボーイズと中島みゆき。イントロだけで曲が分かるものを持ってくるから、盛り上がる瞬間が事前に分かる。サビでバーンと展開して、手拍子が起きて、大開脚が彫刻のような形になる。あの構成は絶妙でした。
価格の感覚としては、二人ともほぼ同じでした。妥当。ロボットが踊っているのではなく、生身の人間が目の前にいる。その対価としては妥当です。むしろ6000円でもいい。3000円なら安すぎる。そのくらいの評価です。
浦島太郎が見た景色
途中で浦島太郎の寸劇が入りました。その二つほど後のショーで、6人くらいがキラキラした衣装で波を意識した動きを見せていて、それを見ながら思ったんです。
浦島太郎が見た景色って、これだったんじゃないか。
鯛やヒラメの舞い踊り。あの歌詞の通りです。アクロバティックな踊りではなかったにせよ、女性を舞台に上げて踊らせるという形式が、エンタメとして昔からあったのだと思います。
出演者は6人か7人。最初のダンスパートで、明らかに他と体つきが違う人がいました。筋肉のつき方からして、バレエをやっていたのではないかと思うくらいで、いちばんいい汗をかいて動いていました。
見せ方ひとつで、憧れにも性的なものにもなる
そういう踊りを見ていて、思ったことがあります。バレエもダンスもフィギュアスケートも、女性の身体を「見せる」ことと無関係ではない気がします。フィギュアスケートの肌色の衣装なんて、遠くから見ればそこにしか布がないように見えるようにできている。
見せ方によって、同じ身体が性的なものにも、美しいものにも、憧れにもなる。可愛い、私もああなりたい、と思わせることができてしまう。その操作可能性が少し怖くなりました。誰がその線を判断しているのか、という話でもあります。
見られることと、性的に評価されること
見終わった後、女性を性的な対象として見ること自体が、本当にそんなに悪いことなのだろうかと考えました。ビジネスの能力も、マナーも、教養もある。それでも僕は、相手を性的な存在として見るところから、性格や知識や技能を見ていくことがあります。それを完全に抜きにしてしまうのは、むしろ相手を人として見ていない、フラットに扱いすぎている、とも言える気がします。
ただし、性的に見ることと、相手を性的な存在としてしか扱わないことは別の話です。舞台にいるのは彼女たちであって、こちらはスポットライトの当たらない場所で金を払って見ているその他大勢でしかない。彼女たちはその他大勢ではないから舞台に立ち、光を浴びている。見ることそのものは、扱いとは違います。
とはいえ、容姿を評価すること自体が良くない、という風潮は確かにあります。人間は顔じゃない、評価すべきは内面の努力や謙虚さだ、という考え方です。それが強くなった理由のひとつは、性的なまなざしを向けないでほしいという声が、女性側から上がりやすいことだと思います。自分が好意を持っている相手から性的に見られることと、見知らぬ相手から性的に見られることでは、同じ「見られる」でも受け取り方がまるで違う。だとすれば、問題は性的に見られること自体よりも、誰から、どんな関係で、どういう言葉で見られるかにあるのかもしれません。
褒めるなら、その人が時間をかけている場所を
褒め方について、ひとつ整理がつきました。
人は、自分が時間をかけている部分を褒められると、嬉しいものだと思います。ものづくりをしている人は、その作品を褒められれば嬉しい。知識に時間をかけている人は、知識を褒められれば嬉しい。相手がどこに時間とお金をかけているかを見て、そこを評価する。それが一番喜ばれるはずです。
その意味で、あの舞台に立っていた人たちは、体をきちんとケアしています。年齢を重ねていても、それを保っている。手入れをして舞台に上がっている。当たり前かもしれませんが、当たり前のことをやり続けています。少なくとも、舞台に立つために身体を作っている人に対してなら、身体そのものを褒めることは、そう不自然ではない気がします。おそらくそこが、日々の中で一番時間を使っている部分だからです。
逆に、そこまで意識せずに素で過ごしてきた人に同じことを言えば、戸惑わせるだけです。性的な目で見られた、とマイナスに受け取られる。同じ言葉でも、届く相手と届かない相手がいる。それだけの話なんだと思います。
もう一度行くか
浅草ロック座に行って、もう一回行こうと言われたら、多分行きます。ただ、毎週とはいきません。少し落ち込んでいるときか、あと一歩の勇気が欲しいときか。そういうタイミングでちょうどいい場所なんだと思います。
エロいものを見に行ったはずなのに、持ち帰ったのは、自分が何を見ている人間なのかという話でした。


