#32 マンガ「オナニーマスター黒沢」の魅力!大切なことは大体エロ本から学んだ説
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とかく目の敵にされるエロ本ですが、「全部が全部悪い作品ではないですよ」ということで「オナニーマスター黒沢」の話をしました。
ちなみにエロ本の定義はR指定入っているかではなく、性的描写の多寡ということでお願いします。
目次
今日の本題は「オナニーマスター黒沢」
エロ本と一口に言っても範囲は広いです。リアルの性風俗から漫画・映像コンテンツまで。今回は生身ではなく、コンテンツ・作品に絞って話をします。
紹介したい作品は「オナニーマスター黒沢」です。
原作は伊瀬勝良(伊瀬カツラ)、漫画を描いたのは横田卓馬。横田卓馬はその後ジャンプでも連載を持つようになった作家で、「背筋をピンと」(ダンスの話)を連載し、最近は終了して別の作品を始めるらしいです。
知っている人は知っているかもしれませんが、「戦闘破壊学園ダンゲロス」という作品も手がけていて、これがジョジョ的な特殊能力バトルものなのですが、能力がとにかく強烈です。男の玉袋が破裂する能力があります。
「オナニーマスター黒沢」はウェブ漫画として公開され、2011年ごろに話題になった作品で、小説版は「キャッチャー・イン・ザ・トイレット」というタイトルで2013年に刊行されています。「ライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye)」のもじりで、まあトイレで捕まえて、というわけです。
まだ読んでいない方は、ここで一度止めて読んでから戻ってきてください。この先はネタバレを含みます。
「オナニーマスター黒沢」 作品情報まとめ
基本データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 原作(小説) | 伊瀬カツラ(伊瀬勝良) |
| 漫画 | YOKO(横田卓馬) |
| 出版社 | ナンバーナイン(電子書籍版) |
| 巻数 | 全4巻(完結) |
| ジャンル | 青年マンガ |
作品の成り立ち
原作小説は、伊瀬勝良(伊瀬カツラ)が2006年3月から9月にかけて、漫画・小説投稿サイト「新都社」にて連載。
同年9月、タイトルを『キャッチャー・イン・ザ・トイレット!』と改めて双葉社より出版。2013年10月には双葉文庫で文庫化された。
漫画版はYOKO(後の横田卓馬)が2007年8月から2008年3月にかけて自身のウェブサイトにて連載し、人気を集めた。
そのウェブサイトが「第四十工房」。漫画版『痴漢男』のカルト的人気を博した後、横田卓馬が手がけたのがこの『オナニーマスター黒沢』。
2009年3月、横田の商業誌デビューに伴いウェブサイトが閉鎖され、以来公開が終了。しかし2013年8月にニコニコ静画にて再公開され、同年11月末には閲覧回数が200万回を超えた。
これは「勇気」の話だ
主人公の男子中学生・黒沢は、学校の女子トイレでオナニーをするという、決して誰にも知られてはならない悪癖を持っています。ある日、いじめられているクラスメイトの女子・北原にその現場を目撃されてしまいます。
最初読んだときは「自分が世界の中心でなくなる話」だと思っていました。人間誰しも自分が世界の中心だと思っているけれど、徐々に外の世界にも人がいると気づいていく、そういう話かなと。
でも読み返してみたら、違いました。これは「勇気の話」だったんです。
黒沢はその悪癖を最初は妄想だけで留めていたのが、やがてリアルの方に向けていってしまいます。中盤を過ぎたあたりで、とある出来事がきっかけになります。自分はなんてことをしてきたんだ、と気づいたその男が、クラスメイト全員の前で告白するシーンがあります。
あのシーンはすごいです。口で説明してもしきれない。百聞は一見にしかずで、ぜひ自分の目で見てほしいとしか言えません。
そのシーンを見ながら思ったのは、「最近、勇気を出したことはありますか?」という問いでした。
勇気があるものを人は何と呼ぶか。勇者、です。能力じゃない。技能でも職業でもない。勇気があるかどうかだけです。
勇気とは何か、少し考えてみました。要するに「何かと勝負してるか」ということだと思います。その大小はどうでもいい。人から見てどんな些細なことでも、自分の本心に嘘をつかずに、自分の気持ちに素直になっているか。それが勇気なんじゃないかと。
この作品が描いているのは、そういうことだと思います。
エロだから嘘がない
もう一つ、なぜエロじゃなきゃいけないのか、という問いを考えました。
エロは生理的な欲求です。そしてその生理的な反応には、嘘がありません。人間は頭が良すぎるから、言葉では簡単に嘘をつけます。身振り手振りだって鍛えれば制御できます。でも、生理的な反応はどうしようもない。自然にお腹が空くように、眠くなるように、身体の変化には嘘がありません。
この視点で面白い話があります。障害者や高齢者など、社会的に偏見を持たれやすい人たちをどう見るか。食欲や睡眠欲で見ると、まだ動物的な域を出ません。でも「性」という軸で見ると、愛情や情念、個性が出てきます。食い方が汚いとか寝相が悪いというレベルの差はあっても、「誰かを想う」とか「どういう形で愛したいか」という性の前では、みんな結構平等なんじゃないかという気がします。
外国人であっても、「性」を軸に人や社会を見ると、共通したものが見えてきます。黒沢を読んで、そういうことを思いました。
好奇心と共感、両方ある作品は稀
人はなぜ物語を読むか。理由は大きく二つあると思います。好奇心と共感です。
好奇心は「こんな世界、見たことない。この先どうなるんだろう」という衝動で、代表例は宮崎駿の漫画版「風の谷のナウシカ」全7巻です。この人の頭はどうなってるんだろう、という驚きがあります。「この先どうなるんだろう」という意味ではハンターハンターの富樫義博がその極北でしょう。
共感は「わかる、俺もそういうことあった」という感覚です。
この二つのどちらかがあれば、十分面白い作品になります。ところが「オナニーマスター黒沢」には、両方あります。この後どうなるんだろうという展開が常にあって、先を読みたいという衝動に駆られながら、同時に「この気持ち、わかる」という共感がある。そういう作品は、本当に稀です。
女性が読んだらどう感じるのだろう、というのは純粋に気になります。主人公は男で、内面の描かれ方は男特有ではありますが、女性キャラクターもたくさん出てきます。男の作者が書く女の子と、女の作者が書く男の子では、また受け取り方が違います。女性の書く男の子は、なんというか「きれいというか、軽い」という感じがあります。それはそれで一つの視点です。
余談になりますが「東京タラレバ娘」には共感できなかったのですが、同じ作者の自伝漫画「かくかくしかじか」は半分ちょいくらい共感できました。好奇心と共感のどちらが強いかで、作品の受け取り方はかなり変わります。
エロを描かないことで失うもの
なぜエロ本じゃなきゃいけないのか、もう一つの答えがあります。
性は世の中からマイルドに隠されている部分です。でも、現実に存在するものです。それを語らずして、世界を語れるか。
大好きな作品を例に出すと、あだち充先生の「タッチ」や「H2」はキスより先の世界がありません。ものすごく綺麗な世界で、理想として全然あっていいと思います。でも、それが現実を反映しているかといえば、そこにあるはずのものが描かれていないことで、どこか虚構の要素が大きくなってしまいます。エロというファクターがしっかり入ることで、初めて深みが出る。そこから目をそらさないという誠実さがあります。
「ダンジョン飯」の話をした時にも似たことを感じました。極限状態でしか現れない人の本性というものがあります。性的な場面においても同じで、普段の振る舞いとは全く違うものが出てくることもあれば、全く同じものが出てくることもある。
「好き」という言葉一つとってみても、その意味は人それぞれです。ただ一緒にいたいだけなのか、会話をしたいのか、手をつなぎたいのか、キスをしたいのか、あるいはもっと直接的な欲望なのか。その「好き」がどれなのかをお互いに測りかねている時、この人の「好き」は手をつなぐことだったんだ、とわかった瞬間にキャラクターの輪郭が一気に鮮明になります。でも本人には手をつなぐだけだと見せながら、やっぱりエッチしたいという欲望が見えた時に、初めて人間らしさが見えてくる。ヒロインがどう答えるか、実はヒロインも同じことを思っていたのか、そこで奥行きが生まれます。その時にしか現れないキャラクターが描けるわけです。
作者にとって、エロが書けないというのは本当に辛いだろうと思います。それ抜きでどうやって人を笑わせ、泣かせるのか。逆に言えば、あだち充先生がそれをやってのけているのは、それはそれですごいことです。ただ、だからこそキャラクターの顔がみんな一緒になってしまうのかもしれません。
タイトルで諦めないでほしい
「オナニーマスター黒沢」は今もネットで読めます。
タイトルのせいで手が伸びない方もいるでしょう。でもバンドの名前にもそういうものはあります。ナニーマシンとかセックスマシンガンズとか、まあそういうものです。タイトルは記号にすぎません。
原作・伊瀬勝良(伊瀬カツラ)、漫画・横田卓馬。稀有な作品だと思います。


