#38 旧約聖書のヨブ記が腑に落ちない
Podcast: Play in new window | Download
Subscribe: Apple Podcasts | Amazon Music | Android | RSS | More
こんにちは。今日は旧約聖書の「ヨブ記」について、どうも納得がいかないなと思っていることを話したいと思います。
タイトルから察しがつくように、今回は宗教をテーマに扱っていますが、特定の宗教に勧誘するような内容は含まれていないのでご安心下さい。
目次
新約聖書と旧約聖書の違い
まず、キリスト教の聖書は「新約聖書」と「旧約聖書」に分かれていますよね。新約聖書がキリスト登場以降の内容で、旧約聖書がそれ以前の「古い契約」に関する内容です。この「約」という言葉は「契約」を意味していて、神と人類の間の契約を指しているんです。
旧約聖書は神と人類との契約がテーマになっていますが、単に法的な契約書のようなものではなく、物語を通してその教えが示されているのが特徴です。例えば「創世記」の天地創造や、アダムとイブ、モーセの十戒など、物語の形式をとってルールや教えを伝えているんですよね。また、それと同時に、イスラエル民族の歴史や伝承が含まれていて、その点では、国の成り立ちを物語る日本の神話にも通じるものがあると感じます。
旧約聖書の代表的な話
日常生活では、旧約聖書の話題はそれほど頻繁に出てくるわけではないかもしれませんが、意外と私たちが知っている物語も多く含まれているんですよ。たとえば「天地創造」や「アダムとイブ」、そして「ノアの方舟」などがそうですね。これらは映画や文学でも題材にされることが多く、私たちが馴染みやすいテーマになっています。
また、バベルの塔の物語もありますよね。人々が天に届く塔を建てようとしたら、神が言語を分けたために意思疎通ができなくなったという話です。今年公開された映画『メッセージ』は、この物語の逆の視点から描かれているように感じました。
さらに、旧約聖書には、時代ごとに追加されていったさまざまなエピソードが含まれているため、一つ一つが異なる時代や背景に基づいています。最初は純粋な宗教的目的だったものが、後半に行くにつれ政治的要素が色濃くなっていると感じることもあります。特にモーセの十戒のあたりからは、宗教的な教えに加えて道徳的・法的な規範が示され、少し複雑に感じるかもしれません。
旧約と原罪
では、この契約の内容を守れば私たち人類は救われるのかというと、そう単純でもありません。旧約聖書の中には「神の加護があるはずなのにうまくいかない」ようなエピソードもあります。
例えば、神を信じて従っていたのに戦争に負けたり、飢饉で苦しんだりする場面も出てきますよね。こういったとき、神との契約が守られていないのでは?と疑問に思うのが普通の考え方かもしれませんが、一部の信者は「私たちが既に罪を犯しているからだ」と考えるわけです。これが「原罪」という考え方に繋がっていくんです。
こうした物語や教えは、私たちが思っている以上に身近なところで引用されたり、文化に影響を与えたりしています。ヨーロッパの人々が「イザナギとイザナミ」を知っているような驚きと同じように、旧約聖書の物語が世界中に広がっていることは驚きでもあり、興味深いことですね。
旧約聖書の内容は、一見難しい契約の話に思えますが、物語や歴史を通して教えをわかりやすく伝える工夫がされています。これが、現代でも多くの人に読み継がれている理由の一つかもしれませんね。
『カラマーゾフの兄弟』と『沈黙』も同じテーマ
旧約聖書の「ヨブ記」について考えると、どうにも釈然としない部分があるんですよね。これは解釈の問題と言えます。「それを信じるかどうかはあなた次第です」という感じの話なんですが、こうしたテーマっていろんな作品にもよく出てくるんです。
例えばロシア文学『カラマーゾフの兄弟』にも似たような要素が見られます。難しい内容ですが、神や信仰に関する問いを投げかける物語です。また、最近公開された映画『沈黙』も、神がなぜ沈黙するのかという問いを中心にした話です。日本の隠れキリシタンが迫害され、命を落としていく中で、「神はなぜ沈黙しているのか?」と問うわけです。
信仰には、真摯に神を信じる人と、宗教を利用する人がいると思います。後者は、宗教的な規範を守ることで社会でうまく立ち回ろうとするタイプです。それが悪いわけではなく、むしろ生活に秩序をもたらす面もあるでしょう。しかし、ヨブ記の話は、それとはまったく異なり、純粋に「神はなぜ沈黙するのか」という問いに真正面から挑んでいるわけです。
ヨブ記の衝撃のストーリー
ヨブ記は衝撃的な物語です。主人公の「ヨブ」は非常に富を持ち、子供もたくさんいる幸せな人物で、かつ敬虔な信者です。ところが、ある日悪魔が神に提案します。「あのヨブは、どんな試練を与えられても神を信じ続けるかどうか、試してみませんか?」と。
神は「命だけは奪うな」と条件を出し、悪魔がヨブにさまざまな試練を与え始めます。まず、ヨブの子供がすべて死に、財産も失われ、彼の生活は一瞬で崩壊します。普通なら、「神なんて信じる価値があるのか」と疑いたくなるような状況ですよね。でもヨブはそれでも神を信じ続けるんです。
しかし悪魔は満足せず、次にヨブの肉体にも苦痛を与えます。体に痛みや苦しみが襲いかかり、ヨブは悶え苦しむようになります。それでもなお、ヨブは信仰を失わないんですね。
そんなヨブを心配して、3人の友人が見舞いに訪れます。しかし、彼らは「本当に信心深いなら、こんなことが起こるはずがない」と批判的です。それに対してヨブは苛立ち、次第に神への疑念が芽生えます。「なぜ私はこんな目に遭うのか?」「なぜ神は沈黙しているのか?」と。そしてついに、ヨブは神に対して抗議を始めます。「私は誰よりも信心深いのに、なぜこんな仕打ちを受けるのですか?」と。
ここでついに神がヨブに現れ、ヨブの疑問に答えます。ただその答え方は、決して優しいものではなく、むしろ威圧的です。「お前は私に文句を言えるほどの存在なのか?」と怒りを露わにし、ヨブも結局「自分が間違っていた」と謝罪せざるを得なくなります。
最後に、神はヨブにすべてを取り戻させ、再び幸福を与えますが、話全体を通して釈然としない部分が残ります。
無条件の信心か、それとも見返りか?
結末についてですが、ヨブが神と対話すること自体が非常に重要なんです。つまり、神が直接語りかけてくることが何より大きな出来事なんですよね。結局、ヨブは「これからも神の認める存在であれるように努力するしかない」と内心で納得したように見えますが、「私が悪かったです」という形で受け入れてしまいます。そして、最後には物語が意外な結末を迎えるのです。
それまでのヨブの苦難に対して、結末は「かつてよりも豊かになった」というのです。経済的にも豊かになり、子どもも再び多く授かるわけです。古代の視点で見れば、財産や子どもが増えることは確かに「報われた」とも解釈できるかもしれませんが、現代から見ると奥さんの存在や当時の社会構造に違和感を覚える人もいるかもしれません。
この話は単なる報酬や結果を求める信仰ではなく、むしろ「無条件の信心」を問うものだと思うんです。本来、信仰は「見返り」なしに神を信じるという姿勢であるべきです。にもかかわらず、ヨブ記のラストが「報酬」とも取れる描写になっていると、信仰そのものが利益を求めるものと誤解されてしまうかもしれません。
ヨブ記=信心についてのよくある質問
私が思うに、ヨブ記に描かれた神の姿はある種のカスタマーサポートのようでもあります。「よくある質問」のようなもので、「信仰を持ってもなぜ幸福が得られないのか」という疑問に対する神の答えという気もします。しかし、その答えはどこか腑に落ちない部分があるのです。
ヨブが抱いた疑問は当然のもので、彼にとっても不条理なことばかりが起きたわけです。しかし、神の答えは力技といった感じで、不条理に対して封建的な対応に思えてしまうのです。現代で例えるなら、理不尽な上司や先輩が「言うことを聞け」と命じる場面に近いのかもしれません。
私自身は無宗教ですが、仏教や神道などの考え方がベースにあると感じています。たとえば「食べ物を粗末にしてはいけない」という感覚も、特定の宗教とは違うものの、ある種の信心が根付いているからこそ自然と生まれる考え方なのではないかと思うんです。
日本には、こうした「暗黙のルール」や生活の中で染み込んでいる倫理観がありますよね。家屋で靴を脱ぐことや、神社で騒がないことなども同様です。これは宗教的な信念ではなくても、長年の文化や教育が築いたルールといえるでしょう。
また、ヨブ記のような宗教的物語は、人々に規範や倫理観を教える機能も持っているのかもしれません。布教活動においても、単に「神の教えを伝える」という以上に、集団の一体感やアイデンティティの形成に寄与していたのではないでしょうか。
宗教的教えが不満を和らげる役割
宗教的な教えは、時に人々の不満を和らげる道具としても利用されてきました。もちろん、実際に信じて力を得る人もいれば、単に価値観や教訓を与えるものとして存在していた面もあるでしょう。
古代から現代に至るまで社会は変化し、平等の概念も少しずつ浸透してきましたが、ジェンダーや役割に関する固定観念が根強く残る部分もあります。「女性も社会参加できるべき」「皆が平等であるべき」という考え方が今では当たり前ですが、かつてはそうではありませんでした。この視点から、宗教的な教えが社会に与える影響について考えてみる必要があります。
自分で考えることの難しさと重要性
昔、福沢諭吉の本で「どれほど学んでも、自分の考えは所詮他からの影響を受けたものにすぎない」という一節に出会い、驚きました。福沢のような偉人がそう感じているなら、自分も無意識にメディアや社会の価値観に影響されているのではないかと疑うようになりました。その背景には宗教的な教えが関係していることも多いように思います。
「自分で考える」ということは簡単ではありません。未来を予測し行動するためには、知識と経験の積み重ねが必要です。しかし、それを自然に鍛える機会は多くありません。とはいえ、仮の答えでもよいので自分なりに考え行動することが重要です。
聖書が私たちに与える示唆
ヨブ記に話を戻すと、そこには抗えない理不尽とどう向き合うかが問われています。すべての人が困難に立ち向かえるわけではありませんが、理不尽さを「飲み込む」ことで整合性を保つ方法もあるのではないでしょうか。この点で、ヨブ記は非常に価値のある作品です。
ヨブ記をはじめ旧約聖書には、「人間としてどうあるべきか」「どのように考えるべきか」といった深い示唆が込められています。宗教的な背景や価値観を学ぶことで、私たちが持つ価値観や考え方のルーツをより深く掘り下げられるかもしれません。