#218 本屋大賞2026朝井リョウ先生小説「イン・ザ・メガチャーチ」ネタバレ感想編:「推し活」という信仰を仕掛ける側と、のめり込む側。視野を狭めることでしか得られない幸福と救いなき時代の生存戦略
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目次
「推し活の小説」だと思うと、ちょっと違う
公式あらすじ
沈みゆく列島で、“界隈”は沸騰する――。
あるアイドルグループの運営に参画することになった、家族と離れて暮らす男。
内向的で繊細な気質ゆえ積み重なる心労を癒やしたい大学生。
仲間と楽しく舞台俳優を応援していたが、とある報道で状況が一変する女。
ファンダム経済を仕掛ける側、のめり込む側、かつてのめり込んでいた側――世代も立場も異なる3つの視点から、人の心を動かす“物語”の功罪を炙り出す。
「神がいないこの国で人を操るには、“物語”を使うのが一番いいんですよ」
「ファンダム」という言葉に聞き覚えがない人もいるかもしれません。要するに推し活文化のことです。熱狂的なファンのコミュニティ、それが生み出す経済圏。いまの日本で言えば、アイドルに全力を注ぐあの世界です。
「推し活」は単なる題材であって、物語の本質ではないように思います。もっと普遍的な問いを、ファンダムというレンズを通して描いています。『桐島、部活やめるってよ』が高校生の青春物語ではなく「桐島がいなくなった世界でどう生きるか」の話だったように、本作も「推し活」はあくまで入口です。
3人の視点——それぞれ「どこか自分に近い」人がいる

登場人物は3人です。
一人目は40代後半の中年男性・久保田慶彦。レコード会社に勤めており、同期より出世が遅れている。バツイチで、子どもとはほぼ疎遠。アイドルにそれほど興味はなかったのに、ひょんなことからデビュー前のアイドルグループの運営に関わることになります。最初は「せっかくのチャンスだし、頑張るか」くらいの温度感でした。
彼のチームには「天才」がいます。ファンダムをどう運営すれば最大限稼げるか、すべてわかっているプロデューサー的な人です。決して悪人ではない。ただ、「ここでこうして、こうすれば、ファンはこう動く」を冷静に算段している人間です。久保田はその視点と時折ぶつかりながら、物語を進めていきます。
推し活に「そんなに造詣がない」という人は、久保田に一番共感しやすいかもしれません。自分もそうでした。「なるほど、ファンダムってこういう仕組みで動いてるんだ」という発見をしながら読む視点です。
二人目は女子大生・武藤澄香。英語が得意で留学志望、でも根は内向的で繊細です。周りは帰国子女ばかりで、みんな「世界の問題」を語る。地球温暖化、紛争解決、女性の地位向上。高い視点を持つ人たちにちょっと疲れていた彼女が、あるアイドルに出会います。「この人、自分のことをわかってくれてる」。そのアイドルの言葉が、自分の気持ちを代弁してくれているように感じる。のめり込んでいく。それが「仕掛けられる側」の話です。
三人目は30代半ばの派遣社員・隈川絢子。生活はギリギリだけど、収入のほとんどを推しに使っています。彼女だけは「絶賛ハマり中」という状態からスタートします。そして物語の中で、ある出来事をきっかけに「信じる対象」が変わっていく。
3人のうち、誰かに「ちょっとわかる」と感じる瞬間が必ずあるはずです。3人全員に共感してしまう人もいると思います。
推し活文化◯ぬんじゃないか
この本を読んでいると、推し活文化を応援する気持ちがちょっと削れます。「推し活死ぬんじゃないか」と思うくらい、えぐってくる。
理由は、久保田の視点で「仕掛ける側」の目線が描かれているからです。ファンダムを運営する人間から見たとき、ファンの子たちはどう映るか。尊重されているか。そうとは言いにくい場面があります。「ここでこうしてあげたら、あいつはこう動く」という計算が、静かに行われている。
だからと言って、仕掛ける側の人間が「悪人」かというと、そうでもない。これが朝井リョウらしいところで、本作には本当の意味での悪人がほとんど出てきません。各自が自分なりの正義を持ち、自分なりの事情を抱えて動いている。ファンを食い物にしているように映る人間も、あちら側から見れば「幸せになりたいだけ」だったりする。対立する相手にとって悪人っぽく映るだけで、邪悪な人はそんなにいない。
アイドルに関わる仕事をしている人に読んでほしいと思ったのは、そこです。「仕掛ける側の視点」を一度でも持つと、自分の立場が少し違って見えます。
ケニー・アッカーマンが言っていたこと
この本のテーマを一言で掴むのに、『進撃の巨人』のあるセリフを借りたくなります。漫画版第69話、ケニー・アッカーマンが今際の際に言うセリフです。
「一族、王様、夢、子ども。みんな何かに酔っていないとやってられなかったんだな。みんな何かの奴隷だった。あいつでさえも」

これを2000年以降の日本に置き換えると、何でも当てはまります。学歴かもしれない、お金かもしれない、SNSかもしれない、YouTuberかもしれない。人間は「何かに酔っている状態」なしには生きられない。
『イン・ザ・メガチャーチ』のテーマを突き詰めると、そこに行き着きます。
今の時代、その「酔う対象」としてファンダムというものが切り取られているだけで、本質はもっと普遍的な話です。推し活に興味がないと思っているあなたも、仕事に「酔って」いるかもしれない。会社に、趣味に、あるいはSNSの承認に。
自分が好きだと思っているもの、ほぼ全部に、この物語は当てはまります。
広い視野を持つと、しんどくなる
「視野を広く持ちなさい」という言葉があります。世界を広く見なさい、多角的な視点を持ちなさい。ごく普通のアドバイスです。
しかし、視野を広げると、イランの戦争やウクライナの問題、地球温暖化、世界の不安定さが見えてくる。考えれば考えるほど、目の前のことに集中できなくなります。
半径5メートルにいる人を大切にする方が、隣人を幸福にできる可能性が高いかもしれない。広い視野を持つことは「よいこと」かもしれないけれど、幸福になれるかは別の話です。
たとえば毎日、日本の政治を憂えている人がいるとします。「あの政策はおかしい」「野党もだめだ」と言い続ける。一方、何かにめちゃくちゃハマっていて、「最近超幸せ」と言っている人がいる。どちらが幸福かと聞かれると、答えは自明ではありません。
この問いを、作者としてフラットに提示しています。どちらが正しいとは言わない。ただ事実として差し出して、「あなたはどう思いますか」と問いかけてくる。アンビバレントなまま、答えを出さない。
そこが読後に「なんとも言えない感じ」を残す理由のひとつです。
推しを失ったとき、人はどこへ行くのか
三人目の登場人物・絢子の話は、読んでいて一番息が詰まります。
彼女には推しがいました。舞台俳優でした。でも物語の序盤で、その推しが自殺します。推しを失うというのは、信仰の対象を失うことです。「神の不在」が発生する。生きる目的を喪失するわけです。
そこで人はどうするか。理屈で言えば、殉教するか、別の対象を信じるかです。でも人間、そんなに強くない。絢子は「信じる対象の変化」を経験します。
自分の神様が自ら命を絶つなんて、信じられない。ここで認知的不協和が発生します。「どう考えてもおかしい」という感覚が生まれる。「私の推しが自分で死を選ぶなんてありえない。なにか裏があるんじゃないか」。その不信感が、「不審死なんじゃないか」「闇の組織に葬られたのでは」という思考に向かっていく。
同じ推しを持っていた仲間たちも、似た疑問を抱えています。SNSで「自分の考えを肯定してくれる言葉」だけが集まり、やがてエコーチェンバーが形成されていく。コロナ禍のワクチン問題なども絡み、最終的には「とある組織が日本を弱体化させようとしているのでは」というところまで話が展開していきます。
これを読んで「バカな人たちの話だな」とは思えません。絢子はバカではない。いきなり信じてしまうような人ではなく、徐々に、ちゃんと自分なりの論理で、覚醒していく。その過程がリアルに描かれているから、引っ張られます。もう戻れないところまで来てしまった感覚が、じわじわと積み上がっていきます。
仕掛ける側と仕掛けられる側が〇〇だった
ここからはネタバレを含みます。ただ、小説を読み始めればかなり早い段階でわかることなので、書きます。
孤独な中年男性・久保田と、孤独に悩む女子大生・澄香は、親子です。
つまり、ファンダムを「仕掛ける側」の父親と、そのファンダムに「仕掛けられる側」の娘が、知らずに同じ舞台に立っています。バツイチで疎遠になっていた父親は、娘が自分に「留学費用を貸してほしい」と連絡してきたとき、心の中で喜びます。「ついに娘が自分を頼ってきてくれた」。
でも読者はわかっています。その「留学費用」は実際には推し活のお金です。父が設計したファンダムに、娘が喜んで身を投じている。その事実を、父だけが知らない。読者だけが知っている状態が続くので、ずっとグッと来る。
物語のラストは、ハッピーエンドとも、バッドエンドとも取れます。一般的にはバッドエンド寄りです。ただ、決定的な場面は描かずに終わります。「幸福はあざなえる縄のごとし」という言葉があるように、不幸の先に幸福がないとも言えない。
メガチャーチとは何か、そして自分のメガチャーチは何か
タイトルの「メガチャーチ」について。これはもともと、数千人から数万人を集める大規模な教会のことです。昔の教会は、小さな礼拝堂に信者が集まって牧師の説教を聞くものでした。それが今、アメリカを中心に変わっています。巨大な会場を押さえ、ロックバンドが出るようなフェス形式の礼拝が行われる。駅前の商店街が消えてイオンに集約されていったように、教会も大きいものに人が集まっていく。
この本で「メガチャーチ」と呼ばれているのはファンダムです。熱狂的な信者を集め、時間と金と感情を動員する巨大な共同体。構造が、宗教と似ています。
面白いのは、朝井リョウ先生自身が「小説というもの自体が、自分にとってのメガチャーチだ」と語っていることです。
私にとっての小説は、読んでも書いても、いくらでも時間を吸い取ってくれて、視野を狭めてくれるものでもある。私は小説という教会に通い続けてきた。その安全さへの自戒も込められています
「自分は推し活と関係ない」と思っている人も、何かしらのメガチャーチに通っているはずです。仕事かもしれない、音楽かもしれない、スポーツかもしれない、読書かもしれない。人間はそういった「信仰の対象」なしには生きていけない生き物です。
かつて不登校支援に関わっていたとき、よく保護者に話していたことがあります。「子どもが勉強しようという気になったとき、それは社会とつながろうとしている一歩目ですよ」と。なぜ勉強するのか、楽しいからとか好奇心が満たされるからとか、そういう理由もあるけれど、もっと根っこに「社会とつながる」という動機があることが多い。メガチャーチも同じです。突き詰めれば、人間が他の人間を必要としているという、根源的な話になってくる。
自分1人しか入れない宗教があったとして、それに入る人はほとんどいないはずです。信仰は、つながりのためにある。
三週間経っても、こんなに語れる本
読み終えてから三週間、熱が冷めた状態でこれだけ語れる本です。読んだ直後はもっと熱狂していました。「すごいものを読んでしまった」という感覚がしばらく続きました。
朝井リョウの過去作を一冊でも好きなら、迷わず読んでいい本です。アイドルの運営やマネジメントに関わっている人にも、ぜひ読んでほしいと思います。仕掛ける側の視点を一度でも持つことは、悪いことではないはずです。
各章に一つ、ドキッとするセリフがあります。悪意ではない悪意が、ポロッとこぼれる瞬間があります。細部の描き方が、この本の醍醐味です。





